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2006/03/09
なるんですねこれが。
この小麦は日本中の「小麦粉にかかわりを持つ人々」にとって、また小麦を粉にする仕事を毎日続けている私たちにとって、とても大切なものなのです。
たかが小麦粉と言うなかれ・・・
これからお話しする小麦「ハルユタカ」そして仲間たちがどのようにしてこの世に生まれ育ち日本の各地で人々に愛されていったかをたどってみたいと思います。
私たちの会社「江別製粉(株)」は昭和23年5月に誕生しました。人間で言いますと団塊の世代になるのです。
この頃は第二次大戦が終わり、復興の兆しが見えるとともに、みんなひどくお腹を空かしていたときでしたからアメリカから送られた小麦を粉にする仕事が全国各地で始まりました。わが社もこの仕事に参加し製粉事業が開始されたのです。
そのときの創業者たちが何を考え行動したか今は知る由もありません。私は幼いながら(5歳でした)父たちのやっていることを見ながら育てられて来ましたので、いくらかは当時のことを思い出すことが出来ます。
次号から少しずつ歴史をひもといて見たいと思います。
2006/03/27
昭和が平成に変わる頃「ハルユタカ」が世に出始めました。
その前にわが国で唯一強力小麦に登録されていた「ハルヒカリ」は細々と水田転作作物として栽培されていました。「ハルユタカ」はこの「ハルヒカリ」の改良品種として生まれました。数年間私ども粉屋はこの麦の評価について意見を言ってきました。
それは、麺類特にラ−メンにしたときに麺の外見の色が芳しくないので使えない、といって見向きをしないでおりました。
そこでやむなく麺類向けの「ハルユタカ」でパンの試作をはじめたところ意外な結果が生まれてきました。
わが社と「ハルユタカ」はこのように「しょうがないからこれにしよう」というところから出会いが始まったのです。
2006/04/06
このとき大人の女性の平均的な力を想定して一度に何グラムの粉で生地をこねたらよいか試行錯誤を重ね、「一回300グラム」が良いのではとの結論を得ました。さらにドライイーストをあらかじめ混合しておきました。
商品としてはまずまずの出来かなと思っていましたら、家電メーカーから自動パン焼機なるものが売り出されることになりびっくりしました。パン屋さんの常識をくつがえし粉屋の我々も思いもつかなかったことが出現したわけです。
ところがこのパン焼機なるもの、一回に使う粉はなんと280グラムから300グラムだったのです。
お互いどのようにその目方に達したか違いはあるものの、結果が同じところであったことに一瞬わがスタッフは笑ってしまいました。
このような機械が出るなどと思いもよらなかったわけですが、わが「パンミックス粉」はこの日のあるのを知っていたかのように売れだしたのでした。
この頃相前後して情報と流通のそれぞれから画期的な(その頃としては)提案が行われたのです。
20年前、フリーダイアル(012-0・・・・・・)を薦めて頂いたNTTの局長さん。そして宅配便しかも代金引換で引き受けてもらった日通の所長さんの二人でわが社の商品を全国へお届けする仕掛けが出来たのでした。
それまでは家庭のお客様から電話で注文を頂き、代金を前金で用意してもらい商品は25kgの業務用袋でしかもトラック便という果てしなくプロフェッショナルなプロセスしか考えられなかった時代でした。
でもこのことがわが社の運命を変えることになったのです。
2006/04/12
でも、1980年代に生まれたフリーダイアルは画期的だったと思います。第一電話代はかからないので(タダではなく受ける側の負担ですが)、心配なくお話ししていただき、さまざま情報もやり取りできたのです。配達にいたっては、代金の支払いまで出来てしまうのが便利であったことから、お客様の評判は大変良かったと思っております。
さて、私たちが道産小麦を意識しだしたきっかけを少しお話します。
お米が過剰になり、転作で麦を作り出して、日本の麦作は再び増加の道を歩むようになりました。
そんななか、北海道も数万トンから数十万トンへと生産量は増えていましたが、大半の麦は道内で消費できず、都府県へ送られていました。
なぜそうなっていたかといいますと、ほとんどの製粉会社で輸入麦を使っていましたから、突然国産に切り替えるのは品質面から支障があったのです。値段が安いのでやむなく増量的に使用することが通常でした。
しかも、道外のメーカーは麦の品質には良くない評価を下しており、東京の会議ではいつも、道産子のわれわれは肩身を狭くしていたのです。でも「本当にみんなが言うほど悪いのか」といつも反発しておりました。
ところが、地元に帰ってくると人が変わって、われわれ自身、生産者に向かってあれこれ苦情を言っていたものでした。
道産小麦をそれぞれ単独で粉にして(それまでは輸入麦に混ぜていたので)、各種のパンや麺類を試作し食べ比べました。
この比べるということに、私たちは縛られていたのです。
しかも評価の元になるのは食べ慣れた今までの粉ですから、どうしても道産粉の良さは理解できなかったのです。
そんなことを繰り返す毎日でしたが、先にお話ししました「ハルヒカリ」小麦の消滅を期に「ハルユタカ」が登場するのです。
1987年の秋でした。
2006/05/02
今年の夏はどんな天候になるのか、心配な連休前の日を過ごしております。ある農家の方は「終戦の年【1945】にそっくりだ」と言っておりました。
毎年春先の天気は《ハルユタカ》にとって、とても大切なポイントです。4月いっぱいの、どの日に種を蒔くかで、その後の成長に影響がでてきます。
今は江別を中心に、《ハルユタカ》を前年の初冬に播種する栽培体系が確立して、幻になりかけていた《ハルユタカ》は力強く復活しつつあります(進行形)。
幸い前年末に播種されていますので、雪の下で命がつながれば(ほとんど大丈夫)、後は春を待つばかりなので、今年のように低温の春でも影響なく成長しています。
初冬播きは最近注目されていますが、原点は《ハルユタカ》が登場してまもなく試みられていた技術なのです。初冬播きについても、後ほど紹介してまいります。
2006/05/22
梅が咲き、そして木々の緑が少しずつ増えています。
第5回で「1987年に出会い」という年を記載しましたが、《ハルユタカ》はそれより少し前に誕生しています。
ここで《ハルユタカ》が誕生する経過をたどってみます。
先日5月11日、私は《ハルユタカ》生みの親というべき、今は農業試験場を退官され、東川町(旭川市に隣接)にお住まいの尾関幸男さんを訪ねてまいりました。そのときの様子については後日別欄でご紹介いたします。今だから言えるような話もありました。
《ハルユタカ》は1977年、北見農業試験場で「北系春407」として本格的に栽培準備に入り、1981年「北見春47号」となり、1985年に《ハルユタカ》の名称で誕生します。
『春蒔きでゆたかに実って欲しい』との願いを込めて《ハルユタカ》と命名されデビューしました。水田転作作物として作付けは急速に増えて、3年後には9000ヘクタ−ルになりました。
以前の稿で書きましたが、製粉関係からの評価は芳しくなかったのですが、わが社の場合「はるひかり」の代わりになるものとして使い出し、その結果に満足して、買い付けを急遽拡大していきました。
この頃はまだ、《ハルユタカ》の本当の姿は理解できていなかったのですが、とにかくこの麦を多くの人々に知ってもらおうと、さまざまな取り組みを開始しました。
ところが、私たちが《ハルユタカ》に出会い、パンにしたり麺にして驚いたり感激する毎日を過ごしている一方で、まったく別な業界のグループは、栽培についての新たな挑戦を始めていたのでした。
第5回で「1987年に出会い」という年を記載しましたが、《ハルユタカ》はそれより少し前に誕生しています。
ここで《ハルユタカ》が誕生する経過をたどってみます。
先日5月11日、私は《ハルユタカ》生みの親というべき、今は農業試験場を退官され、東川町(旭川市に隣接)にお住まいの尾関幸男さんを訪ねてまいりました。そのときの様子については後日別欄でご紹介いたします。今だから言えるような話もありました。
《ハルユタカ》は1977年、北見農業試験場で「北系春407」として本格的に栽培準備に入り、1981年「北見春47号」となり、1985年に《ハルユタカ》の名称で誕生します。
『春蒔きでゆたかに実って欲しい』との願いを込めて《ハルユタカ》と命名されデビューしました。水田転作作物として作付けは急速に増えて、3年後には9000ヘクタ−ルになりました。
以前の稿で書きましたが、製粉関係からの評価は芳しくなかったのですが、わが社の場合「はるひかり」の代わりになるものとして使い出し、その結果に満足して、買い付けを急遽拡大していきました。
この頃はまだ、《ハルユタカ》の本当の姿は理解できていなかったのですが、とにかくこの麦を多くの人々に知ってもらおうと、さまざまな取り組みを開始しました。
ところが、私たちが《ハルユタカ》に出会い、パンにしたり麺にして驚いたり感激する毎日を過ごしている一方で、まったく別な業界のグループは、栽培についての新たな挑戦を始めていたのでした。
2006/06/30
この頃「北海ポット株式会社」というところが小麦を”苗“にして畑に移植する試みを始めていました。つまり考えもしなかったことをはじめていたのです。普通に考えて麦は種で畑に蒔くものだと思っていますから、手間のかかる苗にするのが理解できませんでした。
平成元年2月にこの会社の社長であった高木荒司さんに出会いました。当時79歳を過ぎていましたので、かなりお年を召しておられたのですが、やることなすことすべて、若者に劣らぬ張りきり老人でした。
高木さんは、日本甜菜製糖の専務を退任されてからご自身が手がけておられた「ペーパーポット(紙筒)」を麦の苗作りに応用し、麦を移植栽培しようとしていました。
《はるゆたか》など春まきの品種は、収穫までの期間が限られます(種は4月後半に蒔き、収穫は8月中旬)。ですから天候具合によって、生育結果が大きく左右されます。収量や品質の振れが大きく、生産者は意欲を持って作るというものではありませんでした。
しかし、水田の転作作物として導入されつつある《はるゆたか》は、タンパク含量が多いので、「製粉すればパン・麺に新たな需要が生まれるのでは」との予感があり、「何とか安定した栽培に」と高木さんは考え、移植栽培に取り入れたわけです。
次に移植の様子を紹介します。
苗は3月末にビニ−ルハウスの中で用意します。



小麦 ポット苗での作付けの様子
一個ごとの苗 1ポット3〜5粒の小麦
移植機のベルト上 一枚のマットで20×40 800個の苗になります。


一個ごと分離して地面へ落とし土をかけて抑えます。
平成元年2月にこの会社の社長であった高木荒司さんに出会いました。当時79歳を過ぎていましたので、かなりお年を召しておられたのですが、やることなすことすべて、若者に劣らぬ張りきり老人でした。
高木さんは、日本甜菜製糖の専務を退任されてからご自身が手がけておられた「ペーパーポット(紙筒)」を麦の苗作りに応用し、麦を移植栽培しようとしていました。
《はるゆたか》など春まきの品種は、収穫までの期間が限られます(種は4月後半に蒔き、収穫は8月中旬)。ですから天候具合によって、生育結果が大きく左右されます。収量や品質の振れが大きく、生産者は意欲を持って作るというものではありませんでした。
しかし、水田の転作作物として導入されつつある《はるゆたか》は、タンパク含量が多いので、「製粉すればパン・麺に新たな需要が生まれるのでは」との予感があり、「何とか安定した栽培に」と高木さんは考え、移植栽培に取り入れたわけです。
次に移植の様子を紹介します。
苗は3月末にビニ−ルハウスの中で用意します。
小麦 ポット苗での作付けの様子
一個ごと分離して地面へ落とし土をかけて抑えます。

春まき小麦ハルユタカ物語(7)
江別製粉株式会社:〒067-0003 北海道江別市緑町東3丁目91番地